人の世の
幸せを願って
地域発信の映画づくりと
スローシネマ上映運動を
進めて参ります。
地域社会の崩壊が語られてから、
一体どれほどの時間が流れていったのでしょうか。
地域社会の基礎単位であるべき「家族」さえ揺らぎ始め、
子どもたちの健やかな未来にも赤信号が灯り続けています。
増え続ける虐待、学校でのいじめ、そして子どもの貧困・・・
数々の社会の負の要因が大きな影となって子どもたちの上に投げかけられています。
都市と地方との格差も、決定的なまでに固定化してしまいました。
消費文明が声高に叫ばれ、経済の活性化が唯一最大の価値とも語られ、
大都市は一晩中、まるで不夜城の如ききらびやかな明るさに包まれています。
そんな時間の流れの中に、私たちは忘れてはならなかった大切な物を
取り落として来てしまったのではないでしょうか。
こんな時代に、映画という文化の力を頼りに、多くの方々の胸に火を灯し、
そのお心を連ねて、国の心優しき未来への道筋をたどろうとする願いを込めて、
私たちのシネマとうほくは1998年船出をしたのでした。
1945年、あの暗い戦火の時代から一転して、
平和な、そして新たな民主主義の時代を迎えた日本国民は、
こぞって娯楽を求め、たちまちのうちに映画を大衆娯楽の王座に持ち上げました。
年間を通した映画人口は11億人を数え、
映画館は国中の小さな町にも村にも開館してゆきました。
家族で、友人と、そして恋人と・・・
国民は連れ立って、それぞれが生まれ育った町の映画館で、
スクリーンに展開される世界を堪能し、子どもたちは映画を通して〝人の情〟や
〝人の道〟を知らず知らずのうちに学んでいきました。
今振り返ってみるなら、この時代に映画の果たした役割は、
単なる大衆娯楽としてのそれに止まらず、当時の地域コミュニティを語る上でも
欠くことの出来ないファクターでもあったのかも知れません。
そんな日本映画の幸せな時代も長く続くことはありませんでした。
新たに登場したテレビと娯楽の多様化の波は、
日本映画界を長い低迷の時代に追いやったのでした。
こんな流れを一変させたのがシネコンの登場でした。
1993年に第1号がオープンしたシネコンは、
たちまちのうちに全国へ拡がってゆきました。
大きなスクリーンと素晴らしい音響、シネコンは若者たちとファミリーを中心に
新たな映画人口を拡大することになりました。
低迷を続けていた映画人口に歯止めがかかり、一転して上昇に転じました。
又、全国にスクリーンの数も拡大していったのでした。
しかしながら、光があれば影もありました。
シネコンの登場で、その競争に打ち勝てずに、既存の映画館の閉館が相次ぎま
した。
殊に、地方都市は壊滅状態となってしまったのでした。
シネコンの登場は、映画館の大都市への偏在をもたらし、
日本国中の約9割の市町村は映画館ゼロ地帯となってしまったのでした。
求めれば何でも手に入る大都市・・・そして何もない地方・・・。
都市と地方との格差は、映画の世界では決定的なまでにひらいてしまいました。
又、効率性と高収益のみが求められるシネコンの登場は、
公開される映画の質も変えてしまった様に思えるのです。
多くのスクリーンを独占して巨大な宣伝費でまるでイベントの如く公開される作品や、
ヒットした漫画本を原作にした作品、さもなくばアニメ…
こんな作品のみがスクリーンを独占することになってしまいました。
映画が文化であるなら、その多様性は欠くことの出来ないものであると思えるのに、
昨今の映画界はまるで一色に染めあげられてしまったようにも思えるのです。
では、映画館ゼロ地帯となってしまった地方には、
本当に何もなくなってしまったのでしょうか、
又、文化としての映画を求めるお声は、消え去ってしまったのでしょうか。
いえ、決してそうではありませんでした。
一見、格差の中に埋もれてしまったかに見える地方の中にも、
素晴らしい映画文化との巡り合いへの願い、
そして子どもたちの健やかな成長への願いが
確実なお声となって響き始めてきているのです。
私たちは、シネマとうほくを立ち上げるにあたって、
その社名にあえて地方の典型とも言うべき「東北」の文字と、
文化としての「シネマ」の文字を冠しました。
これまで、大都市を中心に営まれていた政治と経済、
そして文化の流れを国民一人一人の人間の生活の場に転じ、
それぞれの人々が生まれ育った「地方」と「地域」の視点から
その未来を語ってみたいと思ったからでした。
そして、そんな「夢」の実現に、映画という文化の果たし得る役割は、
ことによるととても大きな可能性があるのではないかと思ったからなのでした。
〝人の世の幸せ〟を願って・・・・・
私たちの小さな営みは、それでも一歩ずつ心やさしき未来に向かう道を
拓き始めて来ているのかも知れないのです・・・。